9月 17日, 2004 30号

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スーダンの闘争とコンゴ民主共和国の現状

スーダンの現状は 単にダーファー地域の闘争状態によるものではなく 一帯の国境にひろがるものとして考慮しなければならない。

この地域の闘争は、 よく アラブ人と黒人の間の”人種差別”として見られている。 しかし 一般的に見て すべてのコンゴ民主共和国及び連接地域一帯で闘争は 差別と屈辱に基づくものである。

ある特定の人種または部族が 武力または疲弊により他を圧倒し 経済的に政治的に優勢な少数者政府が 設立されると、差別と屈辱に対する不満が政府およびその関連者に向けて強まり  事態は ますます 悪化する。

こういった状況を固定化するのは 国際社会、または 特定の国で認められている”少数者保護規制”であり、 その規制は 多数の国で少数者側の不規則や無秩序の黙認へとつながっている。 湖畔地域の経験によれば 少数者側の勢力は たいてい兵力によるものである. こういった動きは これらの少数者グループの”短所”-徐々に自己本位になり 他のグループとの共同、共有を拒むーと考えられる。  この精神的短所が 誇大妄想と差別へと発展し、他のグループを卑下 する状況へとみちびく。 こうしたグループ対する屈辱感は 最終的に険悪感に至り 武力闘争、戦争へと つながる。 

鉱物採集地や取引地では、関係団体または個人が 武装したグループに経済的援助を与え鉱山を兵力で確保することによって 継続する闘争を利益の増加に利用しようとする。  天然資源の利益は 地域の問題を解決するかわりに 武装民を肥やし 他国の経済的関連者たちから要求された隠された目的に対応するのに 使われている。

私が本拠としている南部キブ区では、スーダンでの状況を直接つかむことができない。しかし、イツリのオリエンタル区のヘマーレンズ闘争から  北部及び南部キブ区のバンヤミレンジ(ルワンダからのツーシ部落民)問題にいたり、スーダンの闘争とコンゴ民主共和国の東部での闘争の影響が見られる。

これらの実態を説明するために 最近のダーファー地域からきたアデジダ ツイーナというスーダン人の女の子の話を紹介したい。アデジダは 17歳。 彼女は  5歳のとき両親と一緒にスーダンからウガンダに逃げたという。 ウガンダで両親を亡くした後、コンゴ人の家族により北キブ区ベニ市に連れられて来た。

ベニ市に着いてアデジダが特に失望したのは、バンツ地域ナンデ部族によるヘマ部族民に対する差別であった。 ヘマ部族民は 体型的に バンヤミレンジ部族に似ており ともに放牧を営む。 

アデジダは ヘマ部族民に似た黒人の女の子として いじめの対象となった。マイマイ兵に襲われるのを恐れたアデジダは ベニ市を出て 近くに南の町ブテンボに逃げることにした。  不幸なことに、 そこでも 状況は 変わらなかった。 アデジダは ブテンボを出て ゴーマに、そこからまた 南キブ区ブカブ/ウビラに移った。 2004年8月21日 土曜日 ついに 国際平和協力  DDRRR臨時キャンプに たどり着いた。  国連活動の一部として コンゴ民主共和国のウビラに設置されたDDRRR(武装放棄、移動停止、家族再会、差別廃止、定住のための臨時キャンプ)は  元兵士と扶養者のためで アデジダを受け入れる余裕はなかった。  そこでアデジダは何とかその週末だけ泊めてもらい、翌週国際赤十字のキャンプへ 転送してもらうこととなった。  8月24日火曜日 DDRRRから国際赤十字へ 手続きがおこなわれた。 

DDRRRで通訳として働いていた私は 手続きの書類を国際赤十字の児童保護課に送った後 アデジダは国際赤十字の児童保護課から地元の児童保護所AVREOに移ったと聞いた。 一週間後 私は 自転車に乗ってコンゴ民主共和国とブルンヂの境界に向かっているアデジダに 出会った。 ”何があったの?”と聞くと 地元の児童保護所AVREOで キリスト教の教会にお祈りに行かず  モスラムのお祈りをしたので追い出されたと 話した。

バンヤミレンジ部族に似ているのでスパイと疑われ 地元の児童保護所AVREOから追放されたのかもしれない。 バンヤミレンジ部族のリーダーが  コンゴ民主共和国内での少数民族絶滅の対象になっていると国際社会に向けて政治活動を行っている傍ら、  ブルンヂのグツバにある臨時キャンプでは 8月13日から14日の夜 160人に及ぶバンヤミレンジ部族民が虐殺された。 

スーダンとコンゴ民主共和国での闘争は、ウガンダや周辺の状況と 直接かかわりがあるのは 明らかである。 アフリカの各地には  アデジダと同じような苦境に面している何千人もの子供達がいる。 現在 アデジダが無事に国境を越えブルンヂに移ったか またどこかの国境近くの町にとどまっているのか 誰も知らない。

この話をすると アデジダをDDRRRから国際赤十字に転送手続きをした者として いつも私は責任を感じざるおえない。 アデジダは AVREOで タンザニアのキグマにすんでいるはずの叔父の消息がわかるのを待ち 彼と一緒に住む予定だった。

叔父の消息がつかめるまで 私がアデジダを引き取ることもできたのだろうが、最後にあったときは アデジダは絶望し ほとんど錯乱状態で 話もできなかった。  現実的には 自分の二人の子供のほか3人の孤児を引き取っている私にとって アデジダを引き取ることは無理だったのかもしれないが、やはり 自分の力不足を感じずにはおえない。  アデジダは 荒野に消えていった。

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