2月7日, 2004 14号

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ボスニア難民状況

マイケル ローガン

国際基金が設立されてから8年たった今でも何十万人にのぼるボスニアの難民及び国境内避難民たちの将来は定まっていない。

1995年のデイトン合意により紛争は停止され、難民の故郷への帰還が認められたにもかかわらず、 最新の国連難民高等弁務官事務所の調べによると  ボスニア国内の国境内避難民は367,000人、ヨーロッパへの難民は372,000人を数える。

国境内避難民の多くは 親族のもとで暮らしている。 バンジャルカは ボスニアで第2の都市で 1ベッドルームアパートメントに6人で住んでいるのは珍しくない。 300,000人の市民のうち  4分の1は避難民である。 親族のいない避難民は 難民キャンプに住んでいる。

難民キャンプは 木造のバッラクかファイバーグラスとアルミの屋根の小屋で夏は焼けるように暑く冬は零下以下に下がる。臨時のためのはずが 何千人もの人にとって定住の場所となっている。 これらの小さな小屋に住む家族は込み合った共同洗面所を使っている。

難民キャンプ内の家族は月36ドルの国際援助金を受けとっているが、これさえも先行きがはっきりしない。  ボスニアへの寄付は減少しており、支援団体はアフガニスタンやイラクに援助をおくるようになってきた。 赤十字関係者は この支援金の減少は慈悲運動の崩壊につながると予測している。

ボスニア闘争の複雑な背景が状況を悪化している。ボスニアが独立を宣言する以前は サーブ、 モズラム、クロアットの三民族がともに居住していたが、その後 分裂が起こり闘争へとつながった。

極端な民族排除により 人口の偏りが起こり、大きな難民移動へとつながった。たとえば バンジャルカの人口は 闘争前は 55%サーブ、 15%モズラム、15%クロアットだったのが 現在は95%サーブである。 クロエーシアからのサーブ難民がバンジャルカに移住してくるとともに他の民族は押し出された。兵士は14モスクすべてを爆破することによって  モズラム人の帰還を妨げた。

バンジャルカでの民族排除は意外に無武力的に行われたが、一方他の町では 殺人、強姦、強盗は頻繁に起こった。焼かれなかった家屋は 不法に占領されたか、 または 家主は無理やり引渡しにサインさせられた。

このような何年にもわたる双方による情け容赦のない闘争の後、デイトン合意により闘争は凍結され、国はサーブ共和国とモズラムークロアット連邦に分割された。

この合意により いくつものモズラムークロアット人の町が サーブの領土となり また一方では いくつものサーブ人の町がモズラムークロアットの領土となった。双方の間の不信や嫌悪はぬぐわれておらず、故郷への帰還ははかどっていない。  人々は武装民のいる町に戻るのを恐れ 多くの住民の戻った町ではしばしば復讐を目的とした紛争が起こっている。

ダーバー(Drvar)人口10,000人の都市では 戦争中より合意後に被害が増加した。1998年帰還したサーブ人に対する恨みから 一夜暴動が起こった。激怒したクロアット人により、街頭殺人が繰り返されサーブ人の家や店が焼かれた。 難民帰還事務局も破壊された。 こういった状況の中 帰還率が低いのは不思議がない。

多くの資金が家屋の新築に投資され、EU(ヨーロッパ連邦)により所有権の認定がすすめられている(一方では不法在住者の立ち退きが国境内避難民の増加につながっている。) しかし資金のつぎ込みのみでは状況は改善されない。民族間の紛争が続く限り、難民が減少は難しい。 民族間の和解を呼びかけ平和を求める声はいつになったら聞こえるのだろう。

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